戦場から遺書代わりの論文
図書館員阪本一郎の受難
「長い人生の旅路の果てに、ゆくりなくも45年ぶりに生み落したわが子に出逢ったよろこび…」。
45年ぶりの邂逅
こうした書き出しの礼状を当時群馬県前橋市内で書店を経営していた阪本一郎氏から受け取ったのは
1987年の春。当時71歳でしたから、ことし95歳。幸いにも今日、前橋郊外で御健在。去年の夏、「赤旗」紙上で投稿をお見受けしました。
戦時中二度も中国大陸の戦場に召集された阪本氏。その阪本氏が菊年ぶりに出逢えたものは、いわゆる中国残留孤児と思いきや、実は当時一兵卒の坂本氏が中国大陸の荒野の月明かりを頼りに遺書のつもりで書きあげた「わが国近代図書館の黎明」と題する小論文。
執筆した阪本氏自身、内地の恩師に送り届けたこの論文が高く評価されて、日本図書館界で最も有力な専門誌『図書館雑誌』1942(昭17)年2月号の巻頭をかざったことを、当時はもちろん、実に戦後妬年間知らなかったのです。
後輩の見知らぬ図書館員の一人が発掘して送り届けたその雑誌論文コピーを阪本氏は生み落して45年間、離ればなれになっていたわが子を抱くかのように目を細め、一宇一句に指を添えて繰返し読みふけったと言います。
論文が掲載された1942年2月といえば、戦火がアジア・太平洋全域に拡大された直後、「治安維持法」はじめ「軍機保護法」や「国防保安法」、さらには太平洋戦争開始と同時に制定された「言論出版集会結社等取締法」など弾圧法規が網の目のようにはりめぐらされていました。1兵卒の身で最前線の戦場からの送稿、しかも唯物史観による史論の雑誌掲載は到底不可能の状況でしたが、恩師が編集長、そして学術専門誌のゆえにか、幸運にも軍隊や官憲の検閲の目を免れることができました。
「地方文化」弾圧事件
この「幻の名論文」に前史があり、事件はその5年前に起きていました。1937年5月26目、読売新聞が『農村青年を目標に同人雑誌で〃赤〃宣伝、東大生ら8名検挙』の大見出しで報道しました。
「同人雑誌の氾濫時代に合法仮面を被って、地方農村の青年男女に対し、極左思想の宣伝に狂奔していた嫌疑で、雑誌『地方文化』の同人、本郷湯島止宿東大法科3年佐藤正二(25歳)、同目大医科1年田中一男(22歳)、上野図書館書記阪本]郎(21歳)、会社員深町英夫(28歳)、同人内妻三井ひろ子ほか3名の8名が数目前から本富士署に留置、警視庁特高課第一課安斉警部、千田同署特高主任の取調べを受けている…」
世に言う『地方文化』弾圧事件。
群馬の佐藤正一一氏とともに首謀者とみなされた佐藤正二氏はじめ阪本一郎氏を含め8名全員、木刀で殴打され、なんども気絶させられる拷問を受けたといいます。
佐藤正二氏は、戦後群馬で政治革新と民主的医療事業の普及に貢献され、晩年は群馬県本部会長として同盟運動に尽力されました。
阪本一郎氏は、6カ月後起訴猶予処分となったものの、以後特高警察の監視下に置かれ、戦火拡大と共に2度にわたり最前線の戦場に狩り出されました。論文はそこで書かれたのです。戦後ソ連抑留を経て生還した阪本氏は、母扶養のため図書館に復職することなく故郷群馬で民主書店を経営、60年安保大闘争をはじめ、平和と民主主義の運動を精力的に展開されました。
群馬県出身で国会議員、日本共産党元書記局長の金子満広氏は「戦後一貫して私を支えてくれた。募金にしてもいつも期待した倍以上届けてくださった」と語っています。(山崎元・東京都本部)
不屈 中央版 №441 6面 2011年3月15日(毎月15目発行)