二 国家としての戦争責任
2 日本の戦後賠償
サンフランシスコ講和条約のときにも、アメリカは日本から賠償をとらないように主張しました。このころ、アメりカはすでに対日政策を転換しており、日本を反共の基地として利用するために、日本の経済復興に力を貸していたのです。しかしこれには反対する国もあり、結局、日本は賠償を希望する国と個別に交渉し、「生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の殺務」を提供するという役務賠償の形をとることになりました(そのほかに日本の在外資産の没収もありました)。実際にはアメリカだけでなく連合国の多くは賠償請求権を放棄し、日本が賠償を支払ったのはビルマ(ミャンマー)(1954年、720億円)、フィリピン(1956年、1980億円)、インドネシア(1958年、803億円)、南ベトナム(1959年、140億円)の四か国だけです。しかしこのほかに、賠償ではありませんが、それに代わる無償資金供与をおこなった国はつぎの八か国です。タイ(1955年、96億円)、ラオス(1958年、10億円)、カンポジア(1959年、15億円)、韓国(1965年、1080億円)、マレーシア(1967年、29億4千万円)、シンガポール(1967年、29億4千万円)、ミクロネシア(1969年、18億円)、モンゴル(1977年、50億円)。このほか、ビルマとインドネシアには賠償のほかに無償資金供与もおこなっており、また南ベトナムヘは賠償をしましたが、北ベトナムヘは賠償をしていませんので、1975年と76年にあわせて135億円の無償資金供与をおこないました。
これらの賠償、無償資金供与にさらに在外資産の没収などを加えますと、総計1兆362億5711万円にたっする対外支払いがおこなわれました。日本政府は、国交がまだ回復していない北朝鮮を除いて、対外支払いはすべて完了したと、1977年に発表しました。
これらの賠償や無償資金供与にはいくつかの問題があります。まず第一に、これは政府間の支払いですから、うけとった側の政府がそれをどのように使ったのか、分りません。戦争の犠牲になった人びとの役にたつように使われたとはいえないようなケースも少なくないようです。なかには、相手の国が独裁国家である場合には、せっかくの賠償が独裁者のポケットに入ってしまったケースもあるといわれています。
また日本側としても、こういう賠償や資金提供を純粋に戦争の被害への補償あるいはお詫びとしてではなく、東南アジア諸国や韓国への経済進出の足がかりにしようとしていました。したがって賠償といっても現金を払うのではなく、ダムや道路や発電所や工場などの建設という形でおこなわれ、その仕事は日本の大企業が請け負ったのです。たとえばミャンマーでは水力発電所(鹿島建設)、自動車工場(日野自動車、マツダ)、農機具工場(クボタ)、家庭電器工場(松下電器)の建設が賠償としておこなわれました。こうして賠償金はいったん相手国政府の手にわたったのちに、おそらくいくらかピンハネされて、日本企業の手にもどってきたのです。あるいはそれは形だけのことで、実際は日本政府から日本企業へ直接に支払われたのかもしれません。そしてそこには政治家も介在しました。たとえばインドネシアヘの賠償のうちには船舶10隻がふくまれていましたが、これを提供したのは木下産商という貿易会社で、この会社は当時の岸信介首相に多額の政治献金をしていました。
このように工場などの施設をっくった日本の大企業はその国へ進出する足がかりをえたことになります。賠償がそういう意図をもっておこなわれたということを、外務省もはっきりとみとめています。外務省賠償部監修の『日本の賠償』(世界ジャーナル社、一九六三年)にはつぎのようにのべられています。
「輸出困難なプラント類や、従来輸出されていなかった資本財を、賠償で供与して“なじみ”を作り、将来の進出の基盤を築くことが、わが国にとって望ましいのである。」
戦争責任と国家賠償 浜林正夫